Masuk私が黙っていることをいいことに、原告席の弁護士が即答する。
「はい。原告は早期解決を強く望んでおります。離婚は前提です。その上で、被告に過大な請求をせず、公平な条件を提示しております」
公平——
裁判官は「では」と区切り、私のほうを見た。
「被告はどうですか。離婚自体について、反対ですか」
反対と言えばいい。
でも——反対と言った瞬間、次に来るのは「では証拠を出してください」だ。
喉の奥が、ぎゅっと縮む。
「離婚、は……」
待って。
私が悪いと思われていたとしても、もう、離婚でよくない? 夫の暴言や急変する態度に怯えて生きなくてもいいなら、このまま離婚に同意するほうが、ずっといいような気がした。 裁判官が私の言葉を待つ。
原告席の夫がこちらを見た。
その目を向けられると、ひゅっと息が詰まってもうなにも言えなくなる。
弁護士が紙を一枚差し出した。
「和解案として、次の条件で進めたいと考えています」
内容を淡々と読み上げる。
「財産分与はなし。婚姻期間が1年と短く、共有財産が実質的に形成されていないためです。慰謝料もなし。原告は被告を責める意図はありません。ただし——」
弁護士が一拍置く。
「今後一切、原告に対して連絡・接触をしないこと。SNSを含め、原告の名誉やプライバシーに関わる発信を行わないこと。また、原告が被告に対しても同様とさせていただきます。双方子はおりませんので、ここで終結できます」
綺麗に整った言葉。
裁判官が補足するように言う。
「被告にとっても、紛争が長引くことは精神的負担が大きいでしょう。訴訟を継続すれば、主張と立証のやり取りが必要になります。早期解決の可能性があるうちに、よく考えてください」
面倒なことはさっさと終わらせろ、と言われているようだ。私は机の端を見つめた。
「……あの」
言いかけた瞬間、原告席の弁護士に追い打ちをかけられた。「被告が争うのであれば、原告としては、婚姻関係の破綻に関する事情を整理し、必要な立証を進めます。——被告の精神的不安定さについても、これまでの経過を踏まえ、調査せざるを得ません」
夫も目を潤ませながらこちらに訴えてくる。
「もう、疲れたんだ。君のこと嫌いになりたくない。……だから、終わらせよう」
その声は法廷用に作られた声だった。
裁判官が淡々と頷き、机に置いた書類を軽く指で揃えた。「では——本件、和解の可能性を探ります。一旦休廷します。原告、被告、それぞれ別室で待ってください」
休廷。
考えがまとまらないまま暫くして呼ばれ、私はまた法廷に戻された。すでに話はまとまっている空気感。もう、和解を受け入れるしかないの――?
「——被告。この条件で和解し、離婚を成立させる意思はありますか」
意思なんてどこにもないのに。
選べるように見せられているだけで、選択肢はただひとつ。 私にこの条件を覆す力も、反論できる証拠も、なにもない。言葉すらうまく紡げない。息を吸った。肺の中が冷える。
「……わかりました。和解に同じます」
こう言うしかなかった。
財産分与なし。慰謝料なし。互いに今後一切の接触禁止。
裁判官が言った。
「それでは、和解成立とします。本件はこれにて終結します」
終結。
法廷の空気が軽くなる。
原告席の夫がこちらを振り返る。一瞬だけ、私と目が合う。
その目にあったのは勝利の喜びじゃなかった。
真実より整えられた物語が勝つ場なのね。
私はのろのろと帰り支度をした。離婚に応じたものの、これからどうすればいいんだろう。
法廷を出て、当てもなくとぼとぼ歩いた。家に帰ることもできない。私と夫が住んでいた家には、もうすでに夫が連れてきた女性が住んでいる。私より若く、妊娠までしている。
私は浮気された上に、結婚してすぐ、独身時代に貯めた通帳類は、生活費管理の名目で預けさせられ、気づいた時には口座が空になっていた。だから貯金も残っていない。実質無一文で放り出されたのだ。あまりに惨めで、悔しい。
堪えていた涙があふれた。ハンカチで涙を押さえ、俯きながら歩いていると後ろから肩を叩かれた。
振り向くとさっきまで夫についていた弁護士だった。
理人の重なりは、驚くほど慎重で、それでいてひりつくような渇望に満ちていた。 私の肌に触れる彼の指先が、わずかに躊躇うように震えるのを感じる。彼はまだ、私の中に眠るあの日の恐怖に対して遠慮しているのだろう。「嫌ならすぐに止めるから」 耳元で掠れた声が響く。私は応える代わりに、彼の背中に腕を回し、その逞しい身体を自分の方へと引き寄せた。「もっと、あなたを感じさせて……」 その言葉が合図となった。深く、熱い接吻が何度も交わされる。男たちが触れようとした肩、髪、そして唇。そのすべてを理人の香りと熱量で塗り潰していく。 優しいのに、なぜ、こんなにも狂おしい愛撫だと思うのだろう。 同じ男の人でも、理人は違う。私をいつも、心から愛いて、大切にしてくれるのが伝わってくる。 切なさに身を捩る。 理人は今すぐにでも爆発させたい欲望を閉じこめ、私に優しく、優しく触れてくれる。「君だけを大切にしたい」「私も……理人をずっと大切にしたいと思うわ」 何度も絶頂を教え込まれた体は火照り、理人を欲している。「理
「美都。今夜だけは、一人の男として君を独占させてほしい」「えっ……」「ごめん。もう限界なんだ。美都に触れたくて仕方ない」 ぎゅっと抱きしめる理人の腕は、言葉とは裏腹に震えていた。 遡ること30分前。例の事件から一週間が過ぎた。理人の徹底した看病と、片時も離れない過保護なおかげで、私の身体の傷はすっかり癒えていた。 明日からは理人も法廷に戻り、日常が再開する。そんな夜、彼は人美を信頼できるベテランシッターに預け、私を寝室へと呼び出し、先ほどの台詞を聞いたところだ。「人美はよく眠ってくれるいい子だ。万が一の時はもちろん、至急連絡をもらうことにしている。邪険に扱うつもりではないが、明日から仕事だ。美都をチャージさせて欲しい。今夜だけ、俺に君の時間を独占させてくれないか」 理人の瞳は、どこか切なげで、それでいてひどく情熱的に潤んでいた。 彼は私の手を引き、寝室の大きなベッドへと誘う。部屋には彼が好む白檀の香りが微かに漂い、室温は私を労わるように心地よく保たれていた。「美都」 理人は私の手首に指先を這わせた。もう跡は綺麗に消えたけれど、掴まれたりすると怖い。ビクッと肩を揺らす私を見て、彼は動きを止め、私の瞳をじっと見つめる。「俺に触れられるのは怖いかな?」
目を覚ますと朝だった。隣にはまだ眠りについている理人の姿があった。 昨夜の阿修羅のような激しさは消え、眉間の皺も解けて、穏やかな寝顔を見せている。 ――夢じゃなかったんだ。 自分の手首を見ると、そこにはロープの擦り傷を保護するガーゼが丁寧に貼られていた。理人が昨夜、寝る間も惜しんで手当てしてくれた証拠だ。 そっとベッドを抜け出し、近くに置いたベビーベッドの中で眠る人美の様子を見に行った。中で小さな拳を握ってスースーと眠る娘。その温もりを確認した瞬間、ようやく本当の意味での「日常」が戻ってきたことを実感し、鼻の奥がツンとした。 「……おはよう、美都」 背後から温かい腕が伸び、私の腰を抱き寄せた。いつの間にか目を覚ましていた理人が、起きたての低い声で私の耳元に囁く。「かわいい天使はねんね中かな?」「ええ。ごめんなさい。様子が気になったから……理人、起こしちゃった?」 「いや……君が隣にいないと、すぐに目が覚める体質になったらしい」 彼は私の肩に顎を乗せ、一緒に人美の寝顔を見つめた。その眼差しはどこまでも優しいが、私を抱きしめる腕の力は、二度と離さないと言わんばかりに強かった。 「今日から一週間、休みを取った。屋敷のセキュリティもすべて最新鋭のものに更新させる。もうこれで心配ない」 「お金かかっちゃう……」 「そのくらい安いものだ。SPも2倍雇ったから」 「ええっ」 旦那様の心配性に拍車か
屋敷へと戻る車中、理人は一度も私を離さなかった。 人美はすでに私の腕の中で、理人が用意してくれた最高級の柔らかな毛布に包まれ、規則正しい寝息を立てている。その無垢な寝顔を見るたび、張り詰めていた緊張が涙となって溢れ出した。 「……泣かないで。もうすべて終わったんだ」 理人は私の涙を指先で優しく拭い、そのまま何度も私の額に唇を落とした。 屋敷に戻ると、理人は手際よく人美をベビーベッドへと寝かせた。信頼できる専属の看護師を呼んでくれていたので、異常がないか念入りに確認させる。結果、異状はなにもないとのことで、心の底から安堵した。もしもこの子になにかあったらと思うと、胸が痛い。恐ろしい愛憎劇に巻き込んでしまったことを後悔する。「人美は大丈夫だ。もう心配ない。さあ、次は君の番だ」 理人は私を抱き上げ、寝室の大きなベッドへと横たえた。 汚れた洋服を脱がせ、温かいタオルで泥に塗れた私の身体を丁寧に拭いていく。指先が私の肌に触れるたび、そこから熱が伝わり、凍りついていた心と身体がじんわりと解けていった。「理人、自分でやるわ。あなたも疲れているでしょう?」 「だめだ。今は俺に甘やかされてくれ。……君がどれほど恐ろしい思いをしたか、それを思うだけで胸が潰れそうなんだ」 理人の声は微かに震えていた。 彼は私の膝の上に頭を埋め、まるで祈るように私の腰に腕を回した。無敗の弁護士と呼ばれ、
理人の冷徹な一言に清良は目を見開いて震え出した。 先ほどまで神宮寺(佐藤)が受けていた容赦ない制裁を目の当たりにして、彼女の心はすでに崩壊寸前なのだろう。「お、お兄ちゃん……お願い。私は、私はただ、神宮寺さんに洗脳されていたの……! 悪いのは全部あの男なのよ! 信じて、お兄ちゃん!」 清良は涙を流し、血の気の引いた指先で理人のスラックスの裾を掴もうとする。だが、理人はその手を軽蔑しきった足取りで避けた。「信じる? 清良が人美を吊るし上げ、美都に服を脱げと命じたあの瞬間の映像を、俺はこの目で見たんだぞ。……清良、お前にかける慈悲など一滴も残っていない」 理人は冷たく言い放つと、SPの一人が持っていた分厚い書類の束を清良の目の前に叩きつけた。「これは……?」「清良が『海淵神』の活動資金と称して、母さんと父さんの口座から密かに横領した全記録だ。さらに、俺の名を無断で使って都内の闇金融から引き出した借用書の写しも入っている」 清良の顔が土色に変わった。バレることもないと思っていたのだろうか。なんとも浅はかな……。「お前は財閥の令嬢という肩書きを失いたくないばかりに、嘘の上に嘘を重ねた。前の罪が軽すぎたから、すぐ刑務所から出てこられたのが
「お兄ちゃん、待って! 誤解なの! 私は神宮寺さんに脅されて……!」 清良が醜く這いつくばり、理人の足元に縋り付こうとする。だが、理人はその手を汚らわしいものを見る目で一蹴した。「誤解? 配信までしようとしておいてか。清良、君は昔から詰めが甘い。……清良が信奉していたその男、神宮寺の正体を教えてやろう」 理人が指を鳴らすと、SPの一人が神宮寺の顔面を無造作に掴み、無理やり顔を上げさせた。 「神宮寺翔太。本名、佐藤一夫。大学中退後、女性への暴行で前科二犯。……お前がエリート婚約者として紹介したこの男は、インチキ宗教の教祖になりきったマルチ商法で荒稼ぎする、ただの詐欺師だ」「な……っ!? なにを言って……」「ぜんぶ知っているんだ。隠すことは無い」「お、お義兄さん、それはプライバシーの侵害というものですよ。僕は……」「黙れ。その口で二度と俺のことをお義兄さんなどと呼ぶな。……神宮寺。お前、さっき美都になにをしようとした?」 理人の冷徹な問いに、神宮寺はガタガタと震えながら、後退りした。 「ひっ……いや、これは……遊びで、ただの余興です……!」「余興か。ならば、俺も余興を楽しませてもらおう」 理人が合図すると、背後の黒ずくめの男たちが、大きなモニターと機材を運び込んできた。 「神宮寺、お前は女性を騙し、ハメ撮りした動画で脅すのが趣味だったな。お前のクラウドデータにあったデータは俺が回収した。あと、お前が最も恐れているスポンサー……お前の借金を肩代わりしている闇組織の連中にも、お前が彼らの女に手を出していた証拠を添えて、今この瞬間に送信し終えた」「な……っ!? やめろ! それだけは……殺される!!」 神宮寺の顔から血の気が引き、土下座して床に額を打ち付ける。だが、理人の怒りはそんなものでは収まらない。「殺される? 甘いな。死なせはしない。……お前がこれまで女性たちにしてきたこと、そのままお前が味わう番だ。俺が顧問を務める海外の非合法な強制労働施設へ、お前を商品として売り渡した。そこでは、お前のような男を好む連中が待っている。……一生、搾り取られながら地獄を這いずり回れ」「そ、そんな……」 隙を見て逃げ出そうとしたけれど、SPに押さえつけられ、結局彼はその秀麗な顔を地面に擦り付けられていた。「連れて行ってくれ」「やめろ触るなぁぁ――
黒い革靴。整えられた髪。無駄のないスーツの皺。法廷で見たAIロボットみたいな冷たい姿のままなのに、今はなぜか——私の目の前にいるだけで空気が違って見えた。「……なにか御用ですか」 声が震えた。怖い。 この人は
「私も……家庭を守ろうと、努力しました……」 言葉がうまく続かない。頭の中で言いたいことは次々浮かぶのに、口から出てくるのは途切れ途切れの断片だけ。胸がざわざわして鼓動が早鐘のようだ。裁判官がじっとこちらを見つめているのがわかる。表情は読めない。 原告席の弁護士がすっと片手を上げ、冷静な声で割って入ってくる。「被告の主張は具体性を欠いています。感情に基づく憶測ではなく、事実に即した反論をお願いできますか」 感情に基づく憶測——その言葉が頭の奥で反響する。カンジョウニモトヅクオクソク。私の必死の訴えは、彼らにはただの感情的なわがままに映っているのだ。事実に即した反論?そんなもの、でき
(どうしてこんなことに……) 離婚調停がうまくいかなかったため夫に裁判を起こされた私は今、家庭裁判所の法廷にいる。そこは、想像していたよりずっと小さかった。 テレビで見る「裁判」のような圧倒的な迫力はない。けれどその分、逃げ場がない。 正面に腰ほどの高さの木の壁が立ち上がり、その向こうに裁判官席がある。 淡い木目のパネルが視界をまっすぐ切り分け、こちら側とあちら側を別の世界みたいに隔てている。裁判官席は一段高く、中央の大きな椅子が主役のように据えられていた。 私は傍聴席ではなく被告席にひとりで腰掛けている。お金がないから無料相談の弁護士に成功報酬でお願いしていたのに、突然依頼
「小倉は君の独身時代の財産に手を付けている。共有財産として使い込んでいるんだ。今日、財産分与なしで君に支払い能力がないからあちらの優位に立てるようには、そこを隠すためだ」「そんな……使い込まれたから返せないんだ……でもそれ、証拠がないよ」「だから、これから証拠を作る。今日君をここに呼んだのは、謝罪のた