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第1話 私が「悪い妻」にされた日 03

last update Last Updated: 2026-02-11 16:12:59

 私が黙っていることをいいことに、原告席の弁護士が即答する。

「はい。原告は早期解決を強く望んでおります。離婚は前提です。その上で、被告に過大な請求をせず、公平な条件を提示しております」

 公平——

 この裁判自体、不公平なのに。なにを公平だというの。

 裁判官は「では」と区切り、私のほうを見た。

「被告はどうですか。離婚自体について、反対ですか」

 反対と言えばいい。

 反対だと言ってしまえばいい。

 でも——反対と言った瞬間、次に来るのは「では証拠を出してください」だ。

 私は出せない。

 出せない私の言葉は、虚言として切り捨てられる。

 喉の奥が、ぎゅっと縮む。

「離婚、は……」

 待って。

 私が悪いと思われていたとしても、もう、離婚でよくない?

 夫の暴言や急変する態度に怯えて生きなくてもいいなら、このまま離婚に同意するほうが、ずっといいような気がした。

 裁判官が私の言葉を待つ。

 まるで秒針の音が聞こえそうな静けさ。

 原告席の夫がこちらを見た。

 氷みたいな目。家で何度も見た目だ。

 私が黙るまで、じっと追い詰めてくる目。

 その目を向けられると、ひゅっと息が詰まってもうなにも言えなくなる。

 弁護士が紙を一枚差し出した。

「和解案として、次の条件で進めたいと考えています」

 内容を淡々と読み上げる。

「財産分与はなし。婚姻期間が1年と短く、共有財産が実質的に形成されていないためです。慰謝料もなし。原告は被告を責める意図はありません。ただし——」

 弁護士が一拍置く。

「今後一切、原告に対して連絡・接触をしないこと。SNSを含め、原告の名誉やプライバシーに関わる発信を行わないこと。また、原告が被告に対しても同様とさせていただきます。双方子はおりませんので、ここで終結できます」

 綺麗に整った言葉。

 “ここで終結できます”という言い方が無機質で冷たい。まるでAIロボットのようだった。

 裁判官が補足するように言う。

「被告にとっても、紛争が長引くことは精神的負担が大きいでしょう。訴訟を継続すれば、主張と立証のやり取りが必要になります。早期解決の可能性があるうちに、よく考えてください」

 面倒なことはさっさと終わらせろ、と言われているようだ。

 私は机の端を見つめた。

「……あの」

 言いかけた瞬間、原告席の弁護士に追い打ちをかけられた。「被告が争うのであれば、原告としては、婚姻関係の破綻に関する事情を整理し、必要な立証を進めます。——被告の精神的不安定さについても、これまでの経過を踏まえ、調査せざるを得ません」

 夫も目を潤ませながらこちらに訴えてくる。

「もう、疲れたんだ。君のこと嫌いになりたくない。……だから、終わらせよう」

 その声は法廷用に作られた声だった。

 家で私を罵倒する時の声じゃない。

 “外向き用の優しい夫”の声。

 裁判官が淡々と頷く。

「では——被告。この条件で和解し、離婚を成立させる意思はありますか」

 意思。

 意思なんてどこにもないのに。

 選べるように見せられているだけで、選択肢はただひとつ。

 息を吸った。肺の中が冷える。

「……わかりました。和解に同じます」

 

 その瞬間、夫の弁護士がペンを走らせる音がした。

 裁判官が和解条項を読み上げる。

 財産分与なし。慰謝料なし。互いに今後一切の接触禁止。

 そして——「離婚」。

 裁判官が言った。

「それでは、和解成立とします。本件はこれにて終結します」

 終結。

 法廷の空気が軽くなる。

 椅子が引かれる音。紙が重なる音。

 みんな、帰っていく。

 原告席の夫がこちらを振り返る。一瞬だけ、私と目が合う。

 その目にあったのは勝利の喜びじゃなかった。

 もっと冷たいもの。

 当然だろ、というおごり。だから調停の時に素直に同じておけばよかったものを――そう言いたげだった。

 真実より整えられた物語が勝つ場なのね。 

 私はのろのろと帰り支度をした。離婚に応じたものの、これからどうすればいいんだろう。

 法廷を出て、当てもなくとぼとぼ歩いた。家に帰ることもできない。私と夫が住んでいた家には、もうすでに夫が連れてきた女性が住んでいる。私より若く、妊娠までしている。

 私は浮気された上に、今まで独身の時に築いた財産も取り上げられ、実質無一文で放り出されたのだ。

 あまりに惨めで、悔しい。

 堪えていた涙があふれた。ハンカチで涙を押さえ、俯きながら歩いていると後ろから肩を叩かれた。

 振り向くとさっきまで夫についていた弁護士だった。

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